クリスマスツリーに群がるカメラを持った人々と、都会人のパーソナリティ。そして嫉妬という概念について

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私はカフェで作業をしている。ここはふとある、高層マンションが並ぶ街の商業施設の中だ。ここらの人は基本的にお金持ちである。昼から可愛いプードルを連れた主婦がわんさかワンワンである。高校生なども見かけるが、インターナショナルスクールに通う裕福な家庭の子供達だ。Englishが聞こえる、かなり年下なのにとてもかっこよく見えてしまう。そもそも論として服が自分の学生時代とは天地の差である。私の場合、そもそも常に生乾きの匂いがしていた。

 

ところで、ここのカフェからはクリスマスツリーが見える。

 

みんなツリーを囲んで、一眼レフ、スマホのカメラでしきりに写真を撮っている。

ツリー自体は綺麗だが、人々が常に群がっていて全体的に見るとあまりいい綺麗ではない。

 

これは京都の街、ローマのコロッセオ、エジプトのピラミッドなどと同じで、人々が押し寄せることで街が姿を変えてしまう現象と同様だと私は考える。

 

都会でゆっくりサブジェクトを眺め、楽しむことはできない。何故なら、美しいものは人気であり、常に人々が群がっているからだ。Supremeのシューズもアリに囲まれていればロゴだってまともに見えず、クールでない。誤解しないでほしい、私は人々=アリと喩えているのではなく、サブジェクトに何かが集まれば、良い部分が隠れてしまうという意味で表現させていただいた。分かっている、アリなのは自分である、私だけだ。私はアリだ、故に私はこの世界にいる。たいして働かない、怠け者のアリだ。もうやめよう悲しくなってきた。

 

さて、先ほどの京都の街やSupremeの話は都会と田舎のイケメン美女のパーソナリティも同様に捉えることができる。アリの話は脱線してしまった不要な文章なので、地平線のかなたにでも置いてきて欲しい。

 

男女関係に関して田舎の人は母数が少ない社会では、アプローチ数が多くなく、村社会的な要素もあり、行動は控えめである。

都会はアプローチ数が多く、母数が多すぎる事による匿名化現象(Ex 渋谷センター街付近では人々が多すぎて逆に浮気をするリスクが低い。都会ではティンダーで出会っても次回ばったりどこかで会うことはほぼ無い)により需要が一点収集するため調子に乗る。結果彼らをダメにする。

 

母数が多すぎると、人気のあるものに人々が群がり、結果美しくなくしてしまう。

 

田舎では美女がコンビニでバイトをしていたりするが、都会では六本木のクラブにほとんど取られてしまっている。六本木のクラブは江戸時代の殿様の城のようだ。美女を大量にかっさらっていく。そうだ、六本木に織田信長の城というクラブを作り、コンセプトは各地から美女ハンティングしてきたというコンセプトはどうだろうか。誰か5000万くらい貸してくれないだろうか、もちろん無担保無金利で。

 

田舎では美女&六本木のクラブの話に戻る。何故このような現象が起きるかと言うと、誰も時給の安い仕事で人生の貴重な時間を浪費したく無い。容姿が優れていて、時給数万でおっさんと話せば月数回で暮らしていけてしまう、かつ人脈が出来たり、さらにはパパ活、資産家の恋人を捕まえられるような仕事を選ぶだろう。もしくは、選ぶ人多いだろうと言うべきか。そこらではお金を持った多くの人が様々なアプローチをするであろう。そしてそれらに慣れてくる。無論彼女らが努力をしてその地位にいるのは理解をしている、しかし、人間はそんなに強くない。お金を持つとチヤホヤされ本来の自分を見失ってしまうのと同様だ。頭で理解していても、実際冷静かつ客観的に行動するのは不可能だ。実際の自分の価値が釣り上がっているということはないのか。

 

さて、これを数式に例えてみよう。

わがままを言って許される範囲 = X とし、Y = 容姿 Z = パーソナリティ P = 人口密度とすると、

X = Y × Z × P だ。

つまり、
わがままを言って許される範囲 = 容姿 × パーソナリティ × 人口密度

だと私は考える。これは2030年のセンター試験に出ることになるかもしれない。時代が進めばの話だ。

 

これはただの推論だ。私は成功したこともないし、彼らのように容姿が優れているわけではないので、ちやほやされたことがない。

 

そうだ、

ただのイケメン美女への嫉妬だ。

インスタで目の保養でもしよう。